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四季の移ろいに『論語』で考えたこと

一昨日、テレビ中継でレポーターの方が「こちら(本州のとある名所)は、紅葉がいよいよ本格的に始まります」と伝えていて、”こっちは、それこそ、今朝、初雪が降って、もう冬になるんだけどなぁ”と、季節の大きな違いを感じました。

そして、なんとなく『論語』のある章句を思い出しました。

 

天 何をか言わんや。   (てん なにをか いわんや)

四時行われ、百物生ず。  (しじ おこなわれ ひゃくぶつ しょうず)

天 何をか言わんや。   (てん なにをか いわんや)         〘陽賀19〙

  《訳》天は、私に何を語っているのだろうか。

     いつものように四季はめぐり、万物はいつものように生長している。

     天は、私に何を教えようとしているのだろうか。

 

春になると草木が芽を出し、夏には青葉が生い茂る。秋になると紅葉で山は彩られ、冬には真っ白な雪が大地に降り積もる。

私は、四季の変化は当たり前のように思っていたので、この章句を初めて読んだとき、季節の移ろいから人生ということを深く考えさせられました。

 

東洋では、天は「無限」で、万物を「生成」し「化育」させている存在と考えています。

だから、人間という存在も天から生成されているので、昔の人は天の意志を知ることを大切にしていました。

このことは、つい最近まで「お天道様が見ているからね」と言われていたことが、その名残だと思います。

この天の意志というものは、「宇宙の真理」ともいえるべきもので、「自然界の法則」と言い換えられるものかもしれません。この章句から、孔子さんは、自然界の無声の動きを通して、天の意志を感得しようとしていたことが読み取れます。

 

なぜ、天の意志に目を向けているのでしょうか?

 

それは、昔の人は、人間は天の一部だから、天の意思に従って考えていけば、間違いはないと考えていたからです。

そして、天の意志に基づいて、確たる人生観を樹立したと思います。

 

天の存在を信じるかどうかは、人によって分かれるところでしょう。

ただ、天がいつも見ていると信じていることで、天の意志に背いた生き方をしなければ、

天が守ってくれると思えるので、つねに前向きに考えて、自分を信じて生きていくことができるように思います。

このことが、ぶれない人生を創ってくれると考えます。

 

‶四季の移ろいが、自然界の動きが、私たちに伝えようとしているところを考える”

それが、「天の意志を読み取る」ということだと思います。

いま、声なき教えに謙虚に素直に向き合い、天の意志に従って生きていくことが大切なのではないだろうかと思っています。